仏教は他の宗教との違いとして神の存在はない

Writer: admin Type: chundeng Date: 2019-01-21 00:00
仏教は他の宗教との違いとして神の存在はないという教えだと思うのですが仏陀が悟りを開いた後、梵天がでてきたり天部の仏像があったりとすると思うのですがどのような解釈をすればよいのでしょうか?詳しい方お教え願います。共感した0###たとえば、インドラ(帝釈天)とかサラスヴァーティ(弁才天)などという名前の神々は、古代インドに侵入して支配者階級となったアーリヤ人のヴェーダ宗教(バラモン教)の神です。仏典に出てくる「三十三天」というのは、インドに持ち込んだ古代アーリヤ人のヴェーダ経典にあるものです。ヴェーダに出てくる神々の名前が古代イランの宗教ゾロアスター教に現れるのは、それらがイランに侵入した古代アーリヤ人の宗教から取り入れられたからです。アーリヤ人がインドに持ち込んだ神々に対して、アーリヤ人が侵入してくる前から、インド(古代インダス文明)で信じられていた神々もあります。シヴァ(吉祥)神が有名です。オウム真理教事件で教祖麻原が、殺人命令はシヴァ神の命令である、と正当化した、あのシヴァ神です。シヴァ神は狂暴にして恐ろしい神性をもつ山の住人である。必殺の強弓を手にし、虎皮を纒い、山野を荒し廻り、熱病・咳病を武器として人畜を襲う。神々も彼を恐れる。(中村元、『インド思想史』第二版、岩波全書、82頁)インドに侵入したアーリヤ人のヴェーダ宗教(バラモン教)とインドの土着信仰は、バラモン達の制度的隔離政策(カースト制度)にもかかわらず、やがて混交し、後には、その境界がわからなくなってしまうほど混ざり合ってできた宗教が、ヒンズー教と呼ばれているものですが、この混交の歴史の中で新しく作られた神々もあります。たとえば、軍神スカンダ(韋駄天)や愛神カーマです。また、元々神でなかったものがだんだん発展させられて、神になっていったものもあります。仏典にも時々登場する、ブラフマン神(梵天)です。ブラフマンは元々神ではありませんでした。ヴェーダ経典は四つの部分からなっており、「祭祇の実行方法を規定し、あるいは讃歌・祭詞の意義・目的を釈し、祭祀の起源を明し」た部分が「ブラーフマナ(祭儀書)」と呼ばれていますが、ブラフマンはこの「ブラーフマナ(祭儀書)」と深くかかわっています。つまり、ブラフマンとは「もとは神聖で呪力にみちたヴェーダ語」のことだったわけですが、やがて、ヴェーダの哲学(ウパニシャッド)の発展の中で、「世界の根本原理」という抽象的原理にまでも高められ、それが、後代の民間信仰の中で神格化されたのが、ブラフマン神(梵天)でした。(中村元、同上、第二章〜第五章)仏教はこのようなインドの時代的地域的民間宗教の慣習の真っただ中でうまれた宗教でした。仏教に時代的地域的慣習が取り込まれるのは自然現象だと思いますが、仏教は無自覚的、盲目的にそれらを取り入れたのではありません。それら仏典に登場させられる神々は、バラモン教・ヒンズー教の聖典に登場する神々と大きく異なっていて、ほとんど意味のない通行人程度の脇役でしかなく、それらの物語の構成は、神々が信仰の対象にならないような特別の仕掛けになっているからです。つまり、バラモン教・ヒンズー教にとっては、救済の拠り所であるところの神々は、仏典においては、いわば、完全に骨抜きにされて、救済に全く必要のない、神としての内容を持たぬ、単なる飾り物的存在となって、修行者に質問したり、修行者を賛美したり、修行者に嘆願したり、あるいは悪魔となって修行者を誘惑するぐらいのものだからです。これは、極めて仏教らしいやり方だったと思います。ブッダは、聞く人々の状況にあわせて、教えの方法を変えたと言われています。何百年も続く神々の宗教の慣習にどっぷりと使っている人々に対して、そんな神々など存在しないと言っても、「聞く者をますます混迷させるだけ」(マッジマニカーヤ72)ところが、仏教が広まり、一旦、神々などというものが人間にとって全く必要のない「存在」であることが充分理解されるようになると、はっきり神々は存在しないと言われても混迷することがないし、また、今までと同じように神々は存在すると言われても無害だからです。ウルトラマン大好きだった子供も、大きくなると、そんなものは実在しないと言われても、もう泣き出さないようなものです。ナイス0
###沢山のご回答ありがとうございました。いろいろと勉強になりました。###仏とは悟りを開いた人のことです。仏は人間なのですから、人間の力ではどうにもならない自然に対して敬う気持ちがあっても当然なはずです。仏には釈迦如来の他、阿弥陀如来や薬師如来など複数存在しています。ナイス1
###お釈迦様の時代、神様の事を説いても当時の人々は理解出来るレベルになかった。だから余計な話はされなかったのだと思います。ナイス0
###>神の存在はないという教えだいえいえ、そこまで仏教では主張しません。何故なら、基本的に仏教では「存在」について云々しないからです。つまり、仏教にとって神々は居てもいいし、居なくても困らない、そういうスタンスです。居なくっても困らない方に重点を置いたのは、親鸞上人です。その反対に、居てもいい方に重点を置けば、弘法大師の真言宗になるかと思います。>梵天がでてきたり天部の仏像があったりするのは、釈尊が生まれたインドの文化が背景にあります。そのインド一般の考えを、仏教流に解釈しなおしたわけです。どう解釈したかと言うと、神々は人間に「影響を与える何物か」だ、というわけです。神という存在について言ってるわけではありません。それは太陽の光や温かさであったり、ある良い事であったり、又は反対に悪い事であったりということです。それを、仏教では神としたのです。その神々は、仏様の手足となって、人々に様々な影響を与えている、という風に考えたわけです。つまり、衆生救済に忙しい仏様の手となり足となって、仏様を助ける「働き」を神としたのです。だから、日蓮聖人が顕された本尊には、以上の事を踏まえ、日本の神々まで登場します。「梵天・帝釈等は我等が親父釈迦如来の御所領をあずかりて、正法の僧をやしなうべき者につけられて候」と日蓮聖人は言われ、釈尊より遣わされた僧侶の家来という扱いです。面白いのは、日蓮聖人が鎌倉幕府によって捉えられた時、こんな事を言ったそうです。「八幡大菩薩に最後に申すべき事ありとて、馬よりさしおりて高声に申すやう、いかに八幡大菩薩はまことの神か・・・まづ天照大神、正八幡こそ起請を用ひぬかみにて候けれと、さしきりて教主釈尊に申し上候はんずるぞ。いたしとをぼさば、いそぎいそぎ御計らひあるべし」八幡大菩薩よ、あんたは本当に神様なのか?天照大神、正八幡は釈尊の前で、法華経の行者を守護すると誓ったではないか。法華経の行者がこうして殺されようとしているのに、何もしない。それは釈尊に約束した事を守っていない神だ。浄土にいったら、嘘つきの神だと釈尊に申し上げる。このように、神々を叱っているのです。仏教の神々は、こう言うような考え方で捉えているわけです。ナイス0
###仏教を学びながらも自分が親しんできた科学的合理主義への執着を手放そうとしない人々は、仏教経典に神々についての記述が繰り返し現れるのを目の当たりにすると、さまざまな論理を用いてこれを「解釈」、つまり遠回しに神の存在を否認せざるを得ないようです。曰く「神々について説かれているのは道徳を教えるための譬喩である」、曰く「大衆に迎合するため仏教以前の民間信仰を取り込んだものに過ぎない」、曰く「神々とは精神が高い次元に達している人間を象徴的に言ったものである」云々。では、経典に現れた単純な事実とは何か。その一部をご紹介しますので、質問者さんご自身で判断されてみてください。●仏教の根本聖典であるパーリ仏典を読めば、梵天に限らず、神(deva)と呼ばれる生命の存在をブッダが認識し、彼らと対話を交わし、彼らに教えを諭しているといった場面は数多くの経典に渡って繰り返し繰り返し描かれている。(マハースダッサナ経、ジャナヴァサバ経、マハーゴーヴィンダ経、帝釈天問経、転輪王経、他多数)●ブッダはさまざまな譬喩を用いて教えを説くが、ブッダが譬喩を用いるときは「例えば、」を意味するパーリ語である Seyyathāpi, という副詞が文頭に来ることが定型となっている。譬喩が譬喩であって事実ではないということを明確にし、人が万が一にも譬喩を事実と誤解しないような配慮が一貫してあると言える。しかし、仏典中に神の存在が Seyyathāpi, によって始まる文で語られる箇所はない。(「例えば、神がいるとしよう…」というような文は無い。)●パーリ仏典の長部にはブッダが多数の神々についてその名称や出自を語る大集会経という経典がある。そこで上げられる神々の多くは仏教経典でしか言及されない神々であり、仏教以前のバラモン教などにはルーツがない神が多い。●ブッダは生命は五趣の境涯を輪廻していると明言しており、五趣の一つが神々の世界である天界(devaloka)としている。(パーリ仏典中部・大獅子吼経)このような見方は仏教独自のものであり、仏教以前のバラモン教の生まれ変わり思想である五火二道とは根本的に異なるものである。(五火二道説には人が死後に梵天神と「共生する」という思想はあっても、神そのものに「転生する」という思想はない。)●仏教では生命をその発生によって四種に分類しているが(四生)、神々のような生命は雌雄の性交・受胎によって生じるのではなく、業だけを因縁として、肉体に依存せずに発生する「化生」に分類されると説かれている。人間は胎生であるとも明言されているので、人間の一部を神と呼んでいるという説とは矛盾する。●仏教の実践法である八正道について詳しく解説した経典である中部・聖道経や無戯論経においては、神々のような化生なる生命の存在を否定することは邪見であり、化生はの存在を肯定する見方が正見であると明言されている。最後に、仏教では事実に反することを言明して人を欺くことは「妄語」とされ、もっとも基本的な戒の一つです。神々を信じる大衆に迎合しようと、神々などいないと知りながらその存在を肯定したとしたら、ブッダ自らがこの戒を犯す悪業を行ったということになります。道徳を教えるために、自らが道徳を犯すという顚倒した振る舞いは二流の説教師のものであり、決してブッダのものではないはずです。ナイス0
###ラッカナスッタの中に次のような言葉があります。『16.比丘のみなさん。如行が前世で人間に生まれた時、虚言を避ける人で、真実を言い、真実の言葉を言い、一定で正直で、世間を騙さない人でした。そのカンマによって、このように人間に生まれて来た時、この二つの大人物の相になりました。つまり一つの毛穴に一本の毛で、眉間の毛が綿のように白くて柔らかいです。 十三番と三十一番の相は、当然大衆が親しい人になります。つまり比丘、比丘尼、清信士、清信女、天人、人間、阿修羅、ナーガ、カンダッパと親しくなります。 17.比丘のみなさん。如行が前世で人間に生まれた時、告げ口(つまり仲違いさせる言葉)、つまりこちら側から聞かないことを、こちら側を破滅させるために向こう側に言い、向こう側が言わないことを、向こう側を破滅させるためにこちら側に言うことを避け、分裂した人たちを団結させる人で、団結した人を更に団結させる人で、一致団結を喜び、団結を楽しみ、一致団結させる言葉だけを言う人でした。そのカンマによって、このように人間に生まれて来た時、この二つの大人物の相になりました。つまり四十本の歯が揃って、歯並びに隙間がありません。 二十三番と二十五番の相は、当然教団が、つまり比丘、比丘尼、清信士、清信女、天人、人間、阿修羅、ナーガ、カンダッパが分裂しません』。マハードゥッカンダスッタ『比丘のみなさん。私には、天人界、悪魔界、サマナ・バラモン、梵天、天人を含めたすべての生き物も含めたこの世界の、如行か、如行の弟子か、あるいは如行または如行の弟子から聞いた人以外には、これらの問題を託宣することで心を喜ばすべき人は、一人も見えません』。『比丘のみなさん。如行は、知識と行動が完璧で、良く行った人であり、世界を明らかに知り、訓練するべき人を誰よりも良く訓練する御者であり、天人と人間の先生であり、明るい人であり、ダンマを分類して動物に教える人として、この世界に生まれました。 比丘のみなさん。如行は他の人が知ることができるように、最高の智慧でこの世界と、天人、悪魔、梵天の世界を明らかにし、衆生とサマナ・バラモン、天人と人間も明らかにしました。 如行は、初めも中間も終わりも美しいダンマ、要旨も細部も純潔で完璧なダンマを説き、梵行を公開しました』。これを読むと、天人や阿修羅、ナーガ、カンダッパなどは、大衆の中にも、ブッダの教団の中にも全部いるらしいと読めます。そしてこの世界には、天人界、悪魔界、サマナ・バラモン、梵天、天人を含めたすべての生きがいて、普通の人には、この世界に何と何がいるか分からないので、この世界の中に天人、悪魔、梵天の世界があることを明らかにし、衆生とサマナ・バラモン、天人と人間がいることを明らかにしたということです。つまり天人(神とも訳される)、悪魔、梵天、サマナ、バラモン、天人も、すべてこの世界の人間を、心のありようで分類したものです。このように読まれると、多くの疑念が消え、明らかに見えると思います。ナイス0

 

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